『ものつくり敗戦 「匠の呪縛」が日本を衰退させる』読了。【☆☆☆☆☆】
仕事場で業界紙が回覧されることがあります。
いつもならば専門的で面白くもない内容が多いので、ちょっと眺めて情報を得る程度ですが、あるとき目に留まった記事がありました。
その記事には「ものづくり」や「匠の技」という言葉は、太平洋戦争時の「大和魂」と似ているという内容のことが書かれていました。
「ものつくり」や「匠の技」と「大和魂」は、日本の成功体験から生まれてきた優しい響きの大和言葉でありますが、日本を救う打ち出の小槌や信仰に近いものも感じ取れます。
「大和魂」という万能感的な精神主義は、現実に対して完全に無力であったこと、これは日本人は骨身に沁みているはずなのに、また「ものづくり」「匠の技」という精神主義的な表現が溢れています。日本人にとって「ものつくり」が二の徹を踏まないように・・・というのがこの文章の本位でした。
私個人としても、「ものつくり」という言葉の違和感を感じつつ何がその原因なのかわからなかったのですが、その問題に対する視点が非常に面白かったので、筆者(木村英紀)の名前でネット検索してみると本を書かれている。
というわけで図書館で借りてみました。
読んでみるとかなり面白い。
いろいろ気になったところ、覚えておきたいところを自分用にメモとして残しておきます。ちなみに本が書かれたのは09年3月。震災2年前。
・日本のものつくりの強さは、その殆どがハードウェア。それも量産技術。
素材、材料、自動車、液晶、工作機械、家電製品、光学機器、半導体、ロボットなど。
・宇宙や原子力、航空機、防災、放送通信、金融サービスなど一品料理的な技術は、「カイゼン」を通じて製品の成熟度をジリジリ上げていく日本の得意技が発揮できない分野で、実際そこでの日本の技術力は高い評価を得ていない。
・20世紀から21世紀には、モノからコトへの付加価値のパラダイムシフトがおこっている。日本は普遍化というトレンドに乗り遅れていることから、新しい技術に対する日本の技術の存在感が薄れている。
・技術の軸足が機械からシステムへ移動。それは個別から普遍へ。見えるものから、見えないものへ、の転換。そのことを第3の科学革命とこの本では定義している。(第1はガリレオ、ニュートンの近代科学の確立。第2は科学と技術の一体化(大量生産化))
・ソフトウェアの技術輸出入は1:100の輸入超過。
・中世ヨーロッパ時代。科学(サイエンス)と技術(エンジニアリング)は完全な別モノであった。車輪のような関係になったのは近世から。明治維新の際に日本は科学技術として導入をおこなったため、現在の日本では一体化している。
・ものを作るには、機構や仕組みを全てわかっていなくとも良い。
たぶん10%程度理解できれば、ものは作れる。知識は不完全でも作ることは可能。技術者は未知を切り拓き、不確かさを減らし、抑え込むことの出来なかった未知を無害化したときに技術が成立する。
・科学は既知と未知の境界ははっきりしているが、技術は未知を作り出し、それを内部に取り込みながら発展する。生産技術はものを作り出すプロセスにおける未知との戦いであり、不確かさの克服。
・日本の技術は、熟練や経験などの個人的な技能や技術を収斂させる傾向が強い。
精進と修練によっての「匠の技」を重く見る。半面、数式や定型化された手順など普遍的な枠組で技術を表現することは苦手。いわゆる「暗黙知」に頼る。
これは明らかに労働集約型の特徴。西洋は資本集約型が特徴。
・太平洋戦争時のゼロ戦は日本航空技術の疑いの余地もなく名機であった。
だが、それは開戦後1年しかもたなかった。アメリカで開発された新しい戦闘機が投入されるとゼロ戦は急速に陳腐化した。
原因は拡張性の乏しさ。
エンジンや機体の性能がそれぞれ極限のバランスで保っており、実践での教訓を生かして改善しようとすると設計全てをやりなおす必要があった。
また機体形状が名人芸の設計を反映してきわめて複雑。一機作るのに多くの工数と熟練工の手を必要としたことも要因のひとつ。戦争末期では完成品の2~3割しか戦力にならなかった、という話もある。
・労働集約型の技術は、ものに従属する人々を生み出すことがある。
労働力を思う存分に吸い上げて作られた「もの」は、作った人間の汗と苦労の結晶であるから、ものを人間精神の神髄とみなす「物神崇拝」を生み出す。
部品に互換性がなく、規格化が進まなかった原因のひとつ。
・戦時中の日本陸海軍の異常なセクショナリズム。
すべての兵器を陸軍、海軍それぞれが開発した。そのため標準化がおこなわれなく、部品の交換が出来ずに、その規格化が進まなかった。結果、ただでさえ少ない物資を無駄にすることになる。
ちなみに太平洋戦争時のアメリカは重機関銃と軽機関銃をそれぞれひとつしか作っていなく、それを陸海空で共用されたとのこと。
・セクショナリズムに関しては、今の日本にも言えること。この小さな島国に自動車会社は4社以上。家電会社や重工業会社も無数。ちなみにこの本には書かれていないが、我らが中小企業は厳しい淘汰が進んだ結果、ニッチな技術を世界でも数社しか持っていないという場合が多いと思う。
・攻撃力しか評価しない直接性能主義。性能一辺倒主義。
この悪癖は反省されることなく戦後にも持ち越される。日本刀はそれのハシリかも。スペック重視。釣具でも軽さと宣伝文句が大好き。
・「問題がそこにある」→「解こうとしていろいろやってみた」→「出来た」→「良かった」で終わることが多いが、なぜ成果が得られたのか分析が不十分なことが多く、一般化されなく同様なことを繰り返してしまうことが多い。これもシステム化、普遍化の遅れのひとつ。
・日本の技術が普遍性の感度が鈍いひとつのあらわれが、理論を冷遇していることがある。技術が理論になったときに、初めて完全な普遍性を獲得する。
・論理と理論という言葉は、二つの漢字を互いに逆転させた言葉であるが、論理を展開していくと理論があらわれ、理論を解きほぐしていくと論理があらわれる。日本語の含蓄の深さを感じさせる。
・日本の科学技術政策に欠けているのは「見えない技術」への感受性である。本来、日本は見えないことを見るのは得意のはず。見えるものにしか予算を付けないのは役人の責任感なのかもしれないが、将来を見据えた見えない技術への投資が必要。
・「技」や「匠」では現代の技術は理解できない。「技」や「匠」の世界を乗り越え、限界を乗り越えなければ日本の未来に技術の未来はない。技術の主戦場は「匠」とは対極的な世界にある。
ズラズラズラと2時間も掛けて、本を読み返しながらこのエントリを書き連ねたが、それだけ印象的な本である。
本書でも書かれているが、私も含めメーカーの現場では「日本のものつくり」の実力に対して、冷静な目で見ている。けっしてメーカーの未来は安泰ではない。私は、円高のせいでも、国の政策のせいでも、少子化の問題でもないと考えている。
私の職場も、モノを大量に作って売る現場ではあるが、「コト」を売りにする重要性が急速に進んできている。この「コト」の分野は、獲得するまでに多大な時間が掛かるため、いまだ中国メーカーには追随は出来ていない。
いままでラクをしていたつもりはないが、これからも厳しいコトになりそうなのは実感できる。腹を括って取り掛かるしかない。
ものつくりという言葉に違和感を感じている方は一読をお勧めします。
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